今月の伝道掲示板

人身受け難し、今すでに受く 仏法聞き難し、いますでに聞く

この言葉は「三帰依文」の冒頭に出てくる言葉です。以下が原文です。

『人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
 自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
 自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
 自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。』

 

この三帰依文というのは、仏教に於いての3つの宝「仏(仏陀)」、「法(仏法)」、「僧(僧伽)」に帰依するという意味合いを持っています。南無三といわれるのもこの所以です。
しかし、大前提として、人間としてこの世界に生を受けていなければこのようなことはかないません。

  生命の歴史というのは、生物学上、初めはアメーバのようなものだったといわれています。その後途方もない時間をかけて進化を遂げ、(ダーウィンの進化論を否定される場合もありますが)人間という生命体が誕生しました。しかし重要なのは、今この時代に、この場所に、この家庭に、この環境に、“人間”として生まれ出でることができたということが大切なところではないかと思います。

 この三帰依文の冒頭の言葉は、「生を受けた」事と、「仏法を聞く」こととが並列になっているものではありません。我々は”生きている“からこそ仏法に耳を傾け、教えを聞くことができるのです。

 『人身受け難し』というのは、前述の生命の歴史からも、いのちのはたらきにより奇跡的にここに自分が存在できた。本来ならばこのようなことは無かったかもしれないのです。偶然私たちはここに生きているのです。
『仏法聞き難し、いますでに聞く』というのは、仏法を聞く機会はなかなか無いかもしれませんが、今この文章を読んでいるあなたが、いのちあるが故にたまたまこのような仏法を聞くことができた。または仏法に触れることができた喜びの言葉の表れという意味を持っています。

 『人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く』という言葉はすなわち、 「この世に人間として生まれた深い意味と尊さに、今初めて気付くことができた! それはまさに仏法の教えを聞くためであったのだと、今ようやく仏法に出会えた喜びを素直にいただくことができた!」という喜びの言葉の表れではないでしょうか。

 

専念寺副住職 荒川秀志



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